おもしろさの記述

映画でも漫画でも、観たり読み終わったりしたあとに、「とにかくすごかった!」「めっちゃおもしろかった」などという漠然とした感想しか出てこない作品は素晴らしい。

元来おもしろさというのはひと言では表現できないものだ。

この部分がこれこれこういう理由でおもしろい、と表現したところで、それがおもしろさの全てではないだろう。

お笑いだって、何がおもしろかったのか説明したら笑えない。

 

私自身、学生時代数学にハマっていたけれど、「数学の何がおもしろいの?」と聞かれてもうまく答えることができなかった。

心の中で、これはやってみないとわからないよ、と思っていた。

やったところでその人がおもしろいと感じるかどうかは別問題なのだけど。

数学などは、「おもしろい」に達するまでの事前準備が長いから、そこまでたどり着く人が少ない。

準備が足りていないとおもしろいと感じることができないし、準備そのものは退屈だから「これをすることにどんな価値があるのだろう」と感じてしまう人が多いのも無理はないと思う。

 

先日あるドキュメンタリーで、取材班がライダーに「バイクの何がおもしろいのですか?」と野暮な質問を投げかけていた。質問された女性は「乗ったことない人には説明できない」と言った。

「カレーを食べたことない人にカレーの美味しさ説明できないでしょ」と。

 

今、とあるドラマにハマっているが、なぜおもしろいと感じるのか不思議だ、と思う。そのドラマを観たからといって自分の人生にプラスになっているとは言い難い。知りたいことを知れるわけでもない。何か学びがあるわけでも、まして資格が取れて仕事で昇進するわけでもない。

他人の、架空の人生を見せられたところで本来興味は持てないはずだ。

おもしろさとは、意味があるとかないとか、そういうこととは無縁なものなのだ。

そのドラマを観ても観なくても、自分の人生にはなんら影響しない、その程度のことなのだが、ちょっとしたエピソードや作品全体を通して感じられる雰囲気から、思考のバックグラウンドで何かが動き始めるのだ。

それは、「これをインプットしたからこれがアウトプットされた」という単純な公式ではなく、バックグラウンドで立ち上がる無意識のプロセスなのだ。

すぐに答えは出ないけれど静かに続いている思考のあそび。

きっと人間は何かを考えることが好きなんだな、と思わされる。

 

 

写真は、雨の日の公園。

 

 

京野
ばいちゃ!
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