弟とその息子(私にとっての甥)が実家に来ているというので、息子と娘を連れて実家に帰った。夫は出社。息子は病み上がりでまだ怠そうだったので幼稚園を休ませた。

今月は弟の誕生日なのでケーキを買ってから向かった。

先月、夫が母の日のケーキを買ってくれた際、プレートに「おかあさん いつもありがとう」と書いてあったのだが(デフォルトの仕様)、これを見た息子が自分が主役でないことに怒り出したので、今回は抜かりなく息子のプレートを追加することにした。ということは必然的に甥の分のプレートも準備することになり(我ながらなかなか気が利いている)、ここまで来たらもう父と母にもプレートを用意してやろうかとさえ思った(これは結局止めた)。

 

「実家に帰ればご飯を作らなくて済むし、お風呂も実家で済ませてのんびり帰ろう。今日は楽をさせてもらおう」という淡い期待は到着してすぐに打ち砕かれた。そもそも弟は在宅勤務の間、母に子どもの面倒をみてもらう算段で来ており、結局この役目を私が担うこととなった。

芝に出て追いかけっこをしたり、ボール遊びをしたり、ブロックをしたり、お絵かきをしたり、かくれんぼをしたり、とにかくこちらがへとへとになった。食事のときも大騒ぎだ。

持っていったパソコンを開く余裕はこれっぽっちもなかった。

 

1歳の頃、息子に買ったのりもの図鑑が実家に置きっぱなしになっていた。これを久しぶりに読んでみたところ、自分の中の変化に驚いた。新幹線のページを見たときの景色が当時とまったく変わっていたのだ。

当時は新幹線や特急電車をまったく知らず、「はやぶさ」「こまち」など、なんとなく聞いたことがある新幹線しか気に留めていなかった。

ところが、今はもっと詳しい図鑑を買ってDVDを何度も観ている。そのうえでもう一度この図鑑を見てみると、まったく解像度が違って見えるのだ。「この図鑑にも書いてあったのか!」と思う電車がたくさんあった。当時はまったく認識できていなかったのである。

最初に見たときにはまったく分からず面白くもないものが、自分がちょっと知ってから見ると興味が持てるということがある。この変化がたいへん面白い。

ぼんやりと似たようなものとしか認識できていなかったものの区別ができるようになる、その要因はなんだろうか。

夫は「名前を知っているということではないか」という。

名前を知るためには事前に勉強が必要なわけで、その時点では知らないのでたいして興味を持っていないはず。「知っている」という引っかかりは「もっと知りたい」という興味を誘発すると思うけど、まったく知らないときに勉強するモチベーションはどこから来るのだろうか。

 

 

京野
ばいちゃ!
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