取り引き

今日も何をしていたかイマイチ記憶がないまま1日が終わってしまった。

今日は天気が良かったので、動物園に行こうかと思っていたが、結局行けなかった。

「動物園に行く」はずっと私のタスクリストに入っている。行こう行こうと思っているうちにコロナ禍に突入し、タイミングを逃し続けている。したがって息子は生まれてから未だ本物の象やキリンを見たことがない。1歳くらいの頃、伊豆シャボテン公園に行ったことはあるが、ここにはクジャクやリスザル、カピバラはいれどメジャーな動物はいない。

行く時間がないとかコロナ禍だからとかそういうのはたいてい後付けの理由である。行こうかなと思った瞬間、娘のうんちがおむつの中で爆発する音が聞こえて士気が萎えた、というのはきっと言い訳だ。

特に娘が生まれる前、本気を出せば行くチャンスは何度もあったと思う。結局、親のフットワークが重いのだ。

独身時代、どこへでも行こうと思えば次の瞬間には身体が動いていた。しかし子連れ、しかも赤ちゃん連れとなると持ち物も増えるし、あらかじめ色々なことを想定しておかなければならない。そういうことを考えるだけで気が重くなる。

そんなわけで今日も結局息子は百人一首かるたで遊び、昨日届いた「びじゅチューン!」6巻のDVDを観た。

夜、ヘルシオ、ホットクックなど購入予定の家電調査をした。ホットクックはもともと2台持っていたが、そのうちの一台が去年おでんを吹きこぼしてから起動しなくなったので追加で買おうかなと思案中。

最近、息子の叱り方について考える。

私は、本人がもともとしてはいけないことだと知らなかったこと、もしくはわざとやったわけではないことについては怒らず、「それはしないでほしいな」ということを穏やかに伝えている。

しかし息子は「怒られてしまった」ということに敏感だ。どうやら自分はいけないことをしてしまったようだ、それを指摘されてしまったということで引っ込みがつかなくなってしまうことがある。

たとえば娘がやっと寝たと思ったところに大きな声で突っ込んで来たとき、「赤ちゃんが起きちゃうからちょっと静かにしててね」などと言うと、今度はわざとうるさくする。どんなに穏やかに言っても駄目なのだ。

1回目は知らなかったかもしれないが、2回目以降はわざとなので叱るわけだが、言えば言うほど同じことを繰り返すのでこちらもだんだんイライラしてくる。最初は穏やかに優しく話しているのに同じことを繰り返す息子にだんだん腹が立ってきて冷たく当たってしまう。

息子はたぶん私のことを試しているのだ、と思う。自分はどこまで許されるのか、自分はママに愛されているのか。2人目が生まれたことで余計に愛情を確かめたくなるのだと思う。それが分かっていても我慢できない自分は大人気ない、と思う。

 

「赤子の手をひねる」という言い回しがある。大人からしたら子どもを傷つけることは容易だ、と思う。それは必ずしも物理的な暴力に限らない。言葉で心を傷つけることもできるし、言葉がなくとも目つき、表情、態度で不愉快な感情をぶつけることもできる。

こうした態度が子どもに対して「いけないことをしたらお前は愛されないよ」という脅迫になっていないか、と考える。良くないことをすると親が不機嫌になるので、機嫌を取るために良い子でいる、それは親の顔色を伺うその場凌ぎのしつけではないか。

良くないことをして叱るのと、何があっても子どもを愛しているということは独立事象である。息子が良い子だから愛しているのではない。良い子じゃなかったら愛さないわけではない。

だから、叱るときに愛情の取り引きをしてはいけない、と思う。それを無意識にやってしまっていないかを毎日考える。そして愛を言葉にして毎日息子に伝える。

 

 

写真は、先日お水やりをしたときのもの。

京野
ばいちゃ!
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