少しずつ前へ

毎日ブログに日記を書くようになってから1日を振り返る習慣がついた。

息子たちが寝てから「はて、今日はなにをしただろうか…?」と考えるわけだが、息子の幼稚園が再開してからも結局なにもできていないのではという気がしてならない。

とにかく時間がない、というより確かにあったものがあっという間に溶けるという感覚。この感覚が妥当なのかを考えてみる。

9時半に園バスで送り出してから15時半まで6時間。

6時間もある、と思うが、実際は昼食、沐浴、授乳、オムツ替え、それに会社のメールなどを確認しているとあっという間に終わってしまう。

今は実家にいるので家事は手伝い程度だし、買い出しなどもしていないのだからもっと時間があっても良いようなものだ、と思う。

オムツ替えだって1回にかかる時間は1分もかかっていないはず(ときどきうんちが爆発したときには1分では片付けられないが)。授乳だって1回あたり15分程度だ。しかしそれが10回ずつあれば、10分+150分=2時間半なのである。

ひとつひとつの作業は馬鹿みたいに小さくても、積もり積もると無視できない。家事も同じだ。そんなのたいしたことではないでしょう、と思われることも、集まればそれで立派な一日仕事になってしまう。それが毎日毎日、淡々と続く。少しずつ進むしかない。

 

朝、いつものように息子の幼稚園バスお見送りのときにカメラを持って家を出た。急に暖かくなり、庭の花が一気に咲き始めた。ついこの前まで固い蕾だったのに、と思う。毎日観察しているとその変化がよく分かる。

カメラを買ってからいろいろなものの変化に着目するようになった。

最近撮っているのは庭のしだれ梅だ。もう少しすれば桜も開花する。今から楽しみだ。

子どもの頃、祖母が庭の花の写真を撮るのを見て面白みがまったく分からなかった。季節の花が咲くのを楽しみにする心境も理解できなかった。それが今は季節の移り変わりが楽しい。

 

庭をひととおり一周してから家に入り、ほっとひといきお茶を飲む。授乳しながらスマートフォンで漫画を読む。ひょっとしたらこういう時間が無駄なのかもしれない、などと思う。

頭を使う必要があるコンテンツを受け付けない身体になっている。こうやってどんどん頭が悪くなることに、焦りすら感じなくなっていくのだろうか。

 

息子が幼稚園に行っている間に少しでも雑用を片付けてしまおうと「よし!」と気合を入れる。Notionのタスクリストを見ながら優先順位をつけて上から着手してく。

会社の事務手続き、会社を辞める同僚への寄せ書き、お祝い品の振込、役所に電話。

事務手続きで時間が溶ける悲しみがあるが、前に進めている感覚が精神安定剤にもなる。

 

昼休み、久しぶりに軍師コミュニティで勉強会を行った。前回、破水で中止になってしまったイベントだ。

プレゼンが久しぶりすぎてうまく話せなかったけれど、心残りだったことができた嬉しみがあった。多くの人が参加してくれてありがたかった。機会があればまたやろうと思う。

お昼ご飯食べて気づけば14時。息子が帰ってくるまであと90分しかない。

 

最近肩こりが酷い。肩甲骨がぜんぜん動かない。授乳のときに肩が内側に入る姿勢になるのが良くないのだろう。

今読んでいる漫画「ザ・ファブル」の「なまるから」という台詞を思い出す。メンテナンスは常に必要だ。遅くとも違和感を感じたときにはなんらかの手を打ったほうが良い。この機を逃すとゼロに戻すことすら難しくなる。

 

夕方は息子のピアノレッスンだった。入院中、産褥期は母に付き添いをお願いしていたが、今日は私が一緒に行った。最初の日、レッスンの内容を見たときにはこんな簡単なこと、と思ったが、何回か通ううちに確実に上手になっていることが分かる。簡単だから意味がないということはないのだ、と思い知らされる。

私の好きな番組「題名のない音楽会」に出てくる楽器のプロも毎日楽器に触ると言っていた。野球のバッターも欠かさずバットを振るのだろう。ひとつひとつは簡単なことでも、とにかく継続が大事なのだ。

そういう意味では私は今、エンジニアとして爪を研ぐことを怠っているなと思う。

 

毎日あっという間に終わっていく。それはもう本当にびっくりするくらいに。

 

 

写真は、玄関に置かれたヒヤシンス。

 

 

京野
ばいちゃ!
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