幸せを感じるには余裕が必要だ

最近、しみじみと幸せを感じている。

噛み締めている、と言った方が正しいかもしれない。

子どもが生まれてから1年たち、彼が1歳になると同時に、気づくと私も母親1歳を迎えていた。

長かったのか、短かったのか、分からない。

とにかく無我夢中だったような気がする。

そしていま、とても幸せな自分がいる。

言葉というのはとても不思議なものだ。

言語によるコミュニケーション、意思疎通が人間を人間たらしめていると言っても過言ではないだろう。

ひたすらに、まったく言葉の通じない息子と2人きりの時間を過ごした。

それでも私は彼に語りかけ続けていた。

言葉こそが、人間としてのコミュニケーションそのものだとしたら、彼もまた人間なのだから、それはいつか意味をもって彼の耳に届く、そう信じて。

そして私の言葉は1年の時を経て、彼に届いたのである。

もちろん彼は話すことができない、しかし、こちらの意図を理解している。

私が話す言葉を、理解し始めている。

私は自分が子どもの頃から感じていた。

「大人は子どもをみくびりすぎてる」

子どもは大人が思うよりずっと注意深く大人を観察しているのだ。

私は息子に対して、1人の人間として接したいと考えている。

ともあれ、最近息子とコミュニケーションが図れるようになり、劇的に楽しい日々を過ごしているのだった。

もしかしたら、共有する時間の長さが、言葉を抜きにしても意図を理解できる信頼関係を築いたのかもしれないが。

そして今日、私は半年前に挫けた運転を再開してみるに至った。

図書館で様々な本や図鑑を与えてみた結果、大の車好きとなった彼は、率先して車に向かい、自らチャイルドシートに跨った。

ベルトをしても一切嫌がらない。

運転を始めてしばらくすると、時折ベルトを指差して外して欲しいと意思表示することがあっても

「ちょっと待ってね、もうすぐおうちに着くからね」

そういうと、分かった、という顔をしてまた大人しく窓の外の景色を見ている。

やはり言葉は偉大だ。

さて、ドライブの際、東京駅の近くを通り過ぎたのだが、平日の昼間だというのに皇居の周りには大勢の人がいた。

スーツを着たビジネスマンもいれば、観光ガイドにぞろぞろ続く観光客、デート中のカップル。

道路にはタクシー、事故の処理をしているパトカー、白バイ、荷物を運搬中のトラック。

ビルの中には仕事をしている人、レストランで食事をしている人、その食事を提供している人。

工事現場で作業している人、取引先と電話をしている人、仕事をさぼっている人。

いろんな人がいる。

みんな違った事情を抱えて今日を生きてる。

窓の外を見ながらぼんやりと考える。

みんな、生きてるんだなぁ。

みんな働いているなぁ。

自分が働いていないから余計に感じるのだろうけど、様々なサービスを受けるときに、いちいちその裏にある仕事のことを考えて、働いている人がいるのだ、ということを強く感じてしまう。

私は出産を経験するまで、出産によりキャリアの断絶が余儀なくされる女性は圧倒的に不利で、なんて理不尽なんだと憤りを感じていた。

しかし、強制的にキャリアを断絶されるというこの経験は新たな視点を生む。

立ち止まるという体験が、あのまま会社で働き続けていたらおそらく感じなかった疑問、決して考えなかったであろう思考を引き寄せたと思う。

これはとても貴重な経験である。

今は何の疑問も持たず働き続ける恐怖を思う。

私の場合、ではあるが、今回の休職は必要な「息継ぎ」だった。

出産によるパラダイムシフトを経て価値観が変化したとも言えるが、休職による仕事との距離が、冷静に自分の仕事を見つめるきっかけになったのは確かだ。

自分の価値とは何なのか、ということを問い直す良い機会になったと感謝している。

そして改めて今、「余裕」の大切さを痛感している。

常に忙しいという状態は思考の停止を招く。

これは非常に危険な状態だ。

余裕がないと、すなわち、幸せを感じる余裕もない、ということになる。

最近は、ちょっと暇だな、くらいがちょうど良いと感じている。

つくづく、自分は変わったな、と思っている今日この頃である。

スポンサーリンク

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事